1つの選択という決定

香川県で映像クリエイターとして活動している私だが、

ディレクターとして、カメラマンとして、編集者として

1つの作品を作り上げていくことにおいて、

無限の可能性がある世界線で1つの選択を決めていくということの連続なのだなと

最近改めて感じる。

意味不明な書き出しからスタートした今回だが、

自分の中の”再認識”を他人に対して、大袈裟に書いていきたい。

どのような事を言いたいかというと、

まずは撮影!

結婚式での「現場」企業プロモーションの「現場」イメージビデオでの「現場」

様々な現場で撮影する機会がある。

まさに瞬間、瞬間は一期一会であり、たとえ撮り直しができたとしても、

全くの同じというのは絶対に無理で。演技で全く同じにというのは、近づけることはできたとしても、

全くの同じというのは絶対に無理なことで。結婚式は、その真骨頂な場面であり、

時間軸も、感情も、こちらのカメラワークでさえも、瞬間はそこにしかなく。

ただ、必ずしもそのテイクがOKテイクだったかというと、やり直して練り直して、

最高のテイクに昇華していくことだってもちろんある。

不意な場面で、左から撮影すべきか右から撮影すべきか、正面から表情を抑えるべきだったか、

引きで状況を見せながら俯瞰的視野で撮影すべきだったか。

このシーンはチャレンジした画角でなくてよかったのか。定番に抑えるべきところだったのか。

撮影している最中は、常にそんなことで頭をフル回転させつつ、演者の動きのぎこちなさや

不自然にカメラ目線になってしまって、ボツテイクになって、、、、、

そんなこんなを繰り返し、

1という絶対的な数字を絞り出し、OKを獲得していく。

0.5ではダメなんだ。そんな中途半端な所で完了させるわけにはいかない。

2,3,4とあったところで、結局最終的には1にしなくてはならない。

主人公が、ヒロインにプロポーズするシーンは1でいいのだ。

2,3,4もあっては、何回目の?何回言うの?失敗したの?となるから。

要は、採用テイクは1つでいいってこと。

カメラ割は別ですよ。ここでは。

live感の現場では、1だと自分が思っていても、

別アングルが本当は1だったのかもしれないし、

だが、その別アングルに自分は立っていないし、

もうRECボタンを押さなければ、この場面は過ぎ去っていくだけ。

RECがあるかないか1か0かのこの刹那。

1を撮るしかないでしょ!

REC押さなきゃ誰も、この記録を鮮明に記憶しておくことなんてできやしない。

そうさ、ZEROだったなら、できやしないのさ。

1があれば、どうにかなることだってあるのさ。

1って何?

無敵の存在?

いや違う。

1は、撮ったかどうか。データがあるかどうか。

それは、やはり生か死かというくらい大きな事柄。

存在の有無は、1をも超えるほどの差がある。

数字を変えて表現してみよう

ZEROか800万か

デカい差だよね。

かなりの規模で違うよね。

でも

ZEROか1か

存在の有無の立場から言えば、800万より1の方が尊いのだ。

800万だろうが3000万だろうが、

1という存在が作り出した時点で、

すでにその膨大な数字に匹敵する意味を成しているのだ。

だんだんややこしくなってきたかもしれないが、

要するに撮影者は、

1つのシーンにおいて最高の1カットを生み出し、

記録媒体に残していくことで、

カメラマンとしての役割を全うする

あたりまえのことを、大袈裟に書き連ねたのだ。

もう少し発展させていくと、

ディレクターという立場からではその1をさらに1を研ぎ澄ましていく必要がある。

同じ場面、めちゃくちゃ良い画を撮影してきた。

キラーカットとしても使えるカットが多い。

だが、ここでたくさんの取れ高があるからと言って、

主人公のフラれるシーンを何カットも使うのかということだ。

大事なシーン、キラーカットは1つでいいんだ。

何回も使う、似たようなカットが出てくる。

それはもうキラーカットではなくなってしまう。

2,3,4はもはやコメディーとしての別な意味合いになってしまう。

手法としてはあり得るが、ここでは視聴者を泣かせに行きたい。

だから、トリッキーなことは今は不要。

1は1で見せたいのだ。

あれこれ見せたい気持ちを抑え、キラーカットを決める。

この決めるという作業が、

映像制作には最も大切で、

表現の矛盾さ、惹きつける画角、演者の視線、BGM、背景、時間帯、服装、キャラクターの性格、

その後の展開、

決めるべきことが無限にある。

黒沢明が決めたことを周りのスタッフが叶えたように。

決めきる力というのが、必要だ。

アキラクロサワならこの画角でOKしただろうか、、、、

この演技でOKしただろうか、、、、

高みを目指せば目指すほど、コダワリという時限爆弾が作動し、

金網デスマッチが始まる。

大仁田厚は、自らその十字架を背負い、爆竹まで仕込み、

傷だらけで戦った。

なんの話をしているのだ、、、、、

プロレスの話だ。

いや違う。

新日本プロレスとノアの話

いやもっと違う。

要するに、映像は無限であり、

自分の過去の経験全てを背負い、

最高な選択をし続けることで、

最高な演出を生み出し、紡いでいく。

これが大切なんだという話。

大袈裟に表現するとプロレスの話であり、

ラーメン王の話にも繋がるという話。

次回は、ラーメンが視聴率お化けということを掘り下げていくというのも

面白いかもしれない。

1杯のラーメン

ZEROならば、店に入ることを辞めたサラリーマンという話にもなる。